2024年5月12日は、サントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の第720回定期演奏会 マーラー 大地の歌を聴きました。
大地の歌は、本邦マーラー受容史において重要な作品です。東洋的な曲想と、早くから音源が流通していたことから戦前の音楽愛好家の間でマーラーの代表作として親しまれてきました。
東洋的な音階が特徴的で、第4楽章では京劇風のどんちゃん騒ぎとなり、さながら中華街の春節のお祝いを見ているようです。
マーラーは、1908年頃に知り合いの銀行家から中国音楽の蝋管(サンフランシスコの中国人街で収録されたとされる)を譲り受け、聴いていました。この他、アルマとニューヨークの中国人街で阿片窟を見学したりと、インスピレーションを得るには十分だったのでしょう。
なお、マーラーが蝋管と再生機を所有していたという事実は非常に重要で、本人のお喋りやピアノ演奏をプライベートで録音していた可能性を示唆します。残念ながら、現在まで見つかっていません。
マーラー本人の演奏として、ヴェルテ・ミニョンのピアノロールに吹き込まれた歌曲とマーラー5の第1楽章は良く知られていますが、その他にメンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソを吹き込んだ真偽不明の蝋管が存在します。これらマーラー本人の残した音源についての詳細は改めて書きたいと思います。
大地の歌の実演は4回目です。過去は2019年6月の沼尻指揮東フィル、2022年1月の井上指揮読響及び同年8月のピンチャー指揮EICで聴いています。適した歌手を揃えることが難しいのか、マーラー作品の中でも比較的演奏機会が少ないように思います。
実演では今回がベストでした。ノットの指揮は見事なものであり、端正な美しさを湛えた芳醇な香りのする美演と言えるでしょう。前日のカーチュン・ウォン指揮日フィルのマーラー9が熱量に溢れた演奏だっただけに印象的です。また、テノールのブルンス、メゾソプラノのラングはいずれも好演でした。
第3楽章では、客席で急病人が発生、スタッフが駆けつけ搬送されるアクシデントがありました。第6楽章でも、謎の怒鳴り声が聴こえる場面があり心配になりました。ノット・東響は2022年10月のショスタコ4でも演奏途中に奏者が急病で搬送、2019年10月の「グレの歌」では何度も硬貨を落とす人がいました。
長大な第6楽章が始まると、谷間の冷気がホールを満たすような幽玄な音楽世界となり、静寂に包まれました。何度聴いても、心惹かれる感覚です。
後期の作品中において、管弦楽の技法を極限まで突き詰めた6番、メタ音楽としての7番、宗教的法悦ともいえる8番、現世との訣別である「大地の歌」、月面のように荒涼とした9番で死を受け入れ、その先に行き着いた10番、いずれの音楽世界も言葉で形容することはできません。
興味深い録音を紹介します。
ワルター指揮ウィーンフィル(1936年)
初演者ワルターによる世界初録音。戦前国内で流通した数少ないマーラー音源のひとつです(本盤の他には、ワルターのマーラー9、近衛秀麿のマーラー4、フリートとオーマンディのマーラー2及びホーレンシュタインの亡き子をしのぶ歌)。コンマスのロゼー(マーラー妹婿)をはじめ、マーラー本人を知る団員が残っています。ワルターは戦後も本作の名盤を残しています。
シューリヒト指揮コンセルトヘボウ(1939年)
シューリヒトはまさにマーラーと同時代者であり、1910年のマーラー8世界初演も聴いていました。1939年10月という、第二次大戦勃発直後の不穏な時局における本録音の公演は本来メンゲルベルクが振る予定でしたが、体調不良のためキャンセルとなり急遽シューリヒトに代わった経緯があります。コンセルトヘボウの濃厚な音色が魅力的です。そして何より、本録音が有名なのは第6楽章で Deutcheland uber alles, Herr Schuricht ! という、ユダヤ人作曲家マーラーの作品を指揮するドイツ人シューリヒトに対する挑発とも言える親独的な女性の野次(解釈には諸説あります)が収録されている点です。ワルター指揮ウィーンフィルの1938年のマーラー9と同様に歴史の証人です。
クレンペラー指揮フィルハーモニア管(1967年)
名盤中の名盤、峻厳な山峰のように屹立する名演です。余計な解説は不要だと思います。
下は同コンサートの妻の記事です
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