私は双極性障害です。
診断からはかれこれ5〜6年目です。症状としてはもっと長い付き合いになります。
最近は著者よりも躁状態の程度が軽いというか、躁状態にのめり込めていません。躁状態を心地よいとは到底思えないのです。ぐぐっと押さえつける頭と、すぐにでも動き出したい体が交錯して、めちゃくちゃアクセルをふかしている高燃費状態になります。
だからとにかくギアを落とす。
ゆるい服を着て、躁転しないように気をつけて、目線はあっちいきこっちいきますが、ある程度目の前のことを集中して行えているように思います。
この「目の前への集中」も、もしかしたら自分のどこかで「窮屈さ」を与えているのかもしれませんが、今は窮屈さよりも、いざ駆け出した時の息切れの方がしんどいのです。「せっかくだから」でどこまでもやってしまうと、いざ決行の直前になって不安に押しつぶされそうになり、無理やりエネルギーを搾り出して完遂し、ゴール後鬱期突入、という流れ必至です。
そういうわけで、躁状態をのびのびと楽しもうというスタンスである「躁鬱大学」は、共感する部分としない部分がある本でした。でも本当に読んでよかった。非躁鬱人との線引きがあることで、だいぶ楽な気持ちになりました。本でもYouTubeでも非躁鬱人基準の情報しかないことに、改めて驚きました。
一番刺さったのは、「躁鬱人に教育はいらない」という文言です。躁鬱人の方なら、自分に教育されなくても、その場の雰囲気でそこのルールややり方などがわかるのではないでしょうか。
他人との同化が得意だから、教わらなくても追体験できるような感覚で、色々こなせた経験も多いのではないかと思います。私たちに教育係がなくても、そのコミュニティのルールがわかるんです。学校の先生が求めていることも、先回りして読めるから、注意されたり怒られたりすることもないんです。
また人生の歩き方についても誰かにメンターになって教えてもらうものではありませんでした。体感と運とそこにある環境、空気感などからヒントを得て、自分に沿う形で自然と形成されていきます(非躁鬱人のバイアスを模倣しがちなので、なかなか素直に形成することが敵いませんが)。実際私たち躁鬱人は他の人とは違うルートを歩まざるを得ない。でも当事者同士が会うことは稀です。
そうそう。自分の突発的エネルギー放出を受け止めてくれる異性の友達というのは、なんとも羨ましいですね。私にもいつかできたらいいなと思いました。
また私も類に漏れず、人目をものすごく気にします。メタモンのように変幻自在な心と頭と見た目(装いなどで寄せる)を持っていますから、十分みんなが使いたがるトイレにもなれるでしょう。
しかし私はメタモンをやりすぎました。すごくすごく疲れました。なので著者的には珍しいことかもしれませんが、引きこもって精神が安定しました。私の生活には夫しかいません(ありがとう)。おかげで下手な自己運営を見られてしまう怖さがなくなりました。ここにいれば、私に一貫性がなくても安心して生活が回せます。
言ってみれば「すごいね」と言われるためだけにやっていた時期に双極性障害が悪化したわけで、他人の評価から離れるように場所を移ったのは、私にとって自然なことでした。
とはいえ、躁状態を失っているわけではありません。活躍したいし、良い評価はもらいたい。その欲が消えるわけではありません。ではその欲求の矛先はどこに向かうのかというと、最近ではカメラなどの電子機器類、哲学や精神世界の探究(自分で自分を慰める手法が学べる)、暮らしの工夫、洋服、思いつきの海外旅行、ブランクだらけの長距離登山、気になった習い事の体験などです。こういった書き物もそうですね。自分が気分良くなるためだけの、都合の良い相手たちです。
それから、本の虫とは程遠い、暮らしの中に充実を感じることは難しいという話もありましたが、これも私の場合は違います。私は本を読むことができます。好奇心の湧かないような内容でもざっと目を通すことはできます。本屋にいくと癒されます。新しい知見を広げることが快感で、本はすぐにそれを与えてくれます。そして、自分の手で生活が整うことは喜びです。私の思い通りの世界を作れるから、暮らしのひとつひとつが大好きで癒されます。
本を読んでばーっとこの文章を30分で書くところから、今の私はちょっぴり躁状態なのかもしれませんね。とにかく、当事者の視点からちょうど良い言葉がたくさん読めて、良い体験ができました。
精神科には症状の本とか認知行動療法とかの本が置いてあることが多いですが、この躁鬱大学と、同著者作品の自己否定をやめるドリルと、90万円でハッピーライフ(大原へんりさん)とphaさんの作品とか、置いたら良いと思います。自分を変形させずにいられる環境事例というのはとても心の支えになります。

器用貧乏じゃなく、器用富豪というのも、嬉しかったですね
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