今期一推しの本(・・・になりそう)
「時間」や「自己」についてある程度の意識が向いており、その手について文章を読んだ経験のある者でないと、なかなか理解に時間のかかる本だと思う。
かく言う私も、形而上的な本を(もちろん初級のものだが)いくつか読んでいて、学生時代倫理や人文の講義を受けた経験があった上でやっとわかる(と勝手に思っている)文章だった。
著者は数学者の岡潔と小林秀雄の連名。2名の対談形式で、教育、芸術のあり方、日本のあり方について語っている。巻末の茂木健一郎氏の解説にあるように、読んでいるうちに自分が博識である錯覚が生じて思わず驕ってしまうような、大変知的で愉快な文章だった。対談特有のリズムの良さがあり、かつ数学者の言葉を批評家があらためて言葉にしてくれるおかげで、奥行きのある話もすっと読める。もしもこれが著者一名が、ずーっと書き連ねるような文章であったら私はお手上げだっただろう。
まだ前半までしか読んでいないのだが、ここまで読んだ私の感想をまとめる。これは意図的にではない。
「ここには私の知らぬ、私の在り方が書いてあるぞ・・・!」と文字通り息を止めて読んでいたため、動悸によって中断せざるを得なかったのである。
以下、一個人の感想である。
思考を使った自我
著者たちは自我(小我・無明)を認知し、その作用を理解している。そして社会やよりよい人間像、文化の在り方などを考えることで、卓越した脳と合わせて自我をよりよく扱ってきた人たちだ。これが誠に新鮮であった。
一般主婦の私は、今まで彼らのように頭に血を巡らせて自我と相対してきたわけではなく、自我を流していくような付き合い方をしてきた(自我起因の行動で痛い目を見たので、自我と距離を取るためにそうせざるを得なかった)。思考を減らすことでしか、自我とは安らかに付き合うことのできぬものだと思っていた。しかしそれは違ったのだ。
希望的観測かもしれないが、私は彼らの取るアプローチに適性があるように思えてならない。
「むずかしいほど面白い」という言葉に私は思い出した。大人になってから、難しいということは辛く、結果が出ないかもしれないのは怖いから避けたい、という思いを持つようになった。構造研究のゼミに入っていたにも関わらず、院や研究職ではなく、無難で安定的な分野へと進んだ。勉強が好きだった小学生の頃を思い出すと、むずかしいことの面白さを私は確かに知っていた。
私はこういう、考えをこねくり回すことも大好きなことも思い出した。さらに幸運なことに、私はそういう長期的思考ができるタイプの人間である(外山滋比古先生あたりが長く考えることの大切さについて話していたと思うので嬉しいことである)。
老荘思想の方向に舵を切りぼけーっとして穏やかに過ごすのも良いものだが、自我を自己に向けずに方向を調整して、思考を深めていくという方法も合っているだろう(スピリチュアル界隈でも 今は量子力学に加えて右脳と左脳について語るコンテンツが増加しているように見受けられる)。
彼らの自我を昇華させる(茂木氏もアウフヘーベンと言っていた)アプローチは、今後の一つの活路として胸のうちに収まった。
ここで特筆すべきなのは、これは自我を深掘りしていく方法ではないということだ。深掘りしていくと、出てくるのは野生的な欲でしかない。私は原始回帰をしたいのではない。
私たちのいるこのポストコロナの社会は、自我の喪失が拡大している。フロイトの精神論のような心をぐいぐい深掘りしていく方法が普及しているが、特に私たち日本人はその方法が西洋人生まれであることを分かって使わなければならない。
そのつながりできっと、後半にあるあの賛否両論特攻隊の話は参考になる予感がしている(そこまでは読めていないが、店頭でざっと見た)。
ピカソは無明を描いている
「ピカソは無明を描いており、彼自身その無明を良いものと捉えている節がある」というのにはなるほど合点がいった。
本物とはいかぬが、大塚国際美術館(徳島県、タイルに印刷したレプリカの名画が多数展示されている)にて原寸大ゲルニカを見たことがある。中学生だった私は、何が良い悪い以前にギョっとして、ひたすらに迫力とエゴを感じたのを覚えている。
ピカソのみならず現代芸術というのはこのように混沌で、最近は特に、何にしても二番煎じとしか定義できない状態にある。これは著者たちの言うように、この無明という価値ある(ように見える)土台に立ち、芸術活動をしているからなのだろうと思える。そこから生まれるのは共通認識できる美ではなく、自我欲・エネルギーの解放でしかない。
著者たちは芸術のあり方とは、自我で自我の世界を描くのではなく、また原始に返った肉欲的なものでもなく、ものを個性で捉えたものだ、という。
私は夫はマーラー作品に親しみがあり、よく聴きにいく。しかしいつ聴いても救済と絶望のオンパレードで、これは躁うつ病なのではないかと思う。そのコントラストによる相乗効果はそれはそれで面白い(マーラーの良さについての感想は別途記事にしているのでぜひ参照願いたい)。しかし著者のいう安らぎはそこになく、共感症の私にはかえってくたびれてしまうことも多い。
マーラーの曲は確かに美しいが、ものを個性で捉えているというよりも、自己中心的な経験が写実的に表れていると言った方が近い。その点、ブルックナーやバッハなどは、普遍的な美を感じやすい。
何が美なのか。自我を重ねた上でしか機能していない美のセンサーでは、本来の共通して味わえるはずの美の感覚が薄れ、明快なエネルギーに気押される。これにより抽象化が極まり、またしても混沌の渦が極まっていく。
これは美だけでなく、学問や政治についても同じであり、現代(1960年代)をローマ時代の功利主義と同じきな臭さがあるという著者になるほど納得がいった。
忘れられた共通言語
作中、「批評や数学をする者に詩人の心は必要」という話が出てきた。詩とは、個性を介して映し出された物事の本質である。加えて数学者は個性を介してしか論文はまとめられないが、それに別の個性が共感することができる不思議さも語っている。つまり分野、人問わず、この世界には共通言語とも言える何か本質を持っている。
そしてこの共通言語とも言える本質を今の私たちは見逃している。あの積み木の例のように少しずつずれて、ずれたものの上に立って、また一つ載せて、にっちもさっちも行かなくなって、実際に一度更地に戻すような大きな動きを社会は必要としている。
この共通言語は、無明(自我)から離れたところで見つけることができる。「国も世界も知力が低下しているのは、無明が握りしめられているからこそ」という話に、私も同意できる。実際、世の中を無明から距離を置いたところからみれば、明らかにおかしいことが最近特に多い。確かに自我・エゴが強すぎて、何が元になっているのか見通しが悪い。学問も資格や進学のためという人のあり方とは異なる方向に使われてしまっている。
芥川賞の審査員が「あまりにも文学のレベルが低い」と辞退したことがあった。その時私はパッとこなかったけれど、この無明という観点から見れば、なるほどそういうことかと思えた。
無明から距離をとった観点
私は、倫理観の薄い人間である。犯罪者にあえば、その人にとって普遍の出来事であったのだと理解できる自信がある。
先日大手新聞記者の友人に「将来の自分のために子供を産むというのも、リスク管理の面から言えば納得のいくものだ」と言ったところ、まるで取り合ってくれなかった。彼女にはその職業ぴったりの確固とした(後付けでしかない)倫理観を持っている。
倫理観、常識、そういったものは作中で知情意の話ででてくるように、岡先生の言う「感情」によって決められている。
私もそれなりに感情はあるつもりなのだが、いくぶん希薄なのかもしれない(自分に起こりうるリスクについてはこんなにも怯えていると言うのに)。
例えばダン・ブラウンの「インフェルノ」という作品がある。地球のために人口削減を求めてウイルスを撒こうとする(本人たちはこれが正義だと思っている)団体が登場し、主人公の教授は一生懸命それを阻止する話だ。私はもしその場にいたとして、どちらにも加担しないだろう。どちらも自然現象として必要なシステムが正しく機能しているように見えるため、そこに私、という手が入ることを私は不自然に感じる。
そしてこの考え方は、無明から距離をとった場所から俯瞰できているのではないかと思っている。
とはいえ
とはいえ、この世は主観でしか観測することができず、私にはある程度の諦念があり、各々がその現象を意味付けてやっていくのみだと思っている。
こんな文章を書いたって、こんな文章を読んだって、その人がその人で有意義だと思わざれば全く意味を持たない。その意味を私に定義することは不可能である。
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