MENU
アーカイブ

エゴと高い視点からみた私(躁鬱大学とフェリファブ哲学)

新緑の若葉の葉脈が逆光で透けている

こんにちは、今は躁鬱大学とフェリファブ哲学が好きな躁鬱人です。

躁鬱大学は、人間のエゴ・自我の立ち位置から自分の楽な過ごし方について言及しています。対してフェリファブ哲学(YouTube)は、西洋哲学の「すべては幻影(影)である」ということを基盤にして、私というものはエゴとは異なる存在で、私とは森羅万象の一部であり、包括的な存在であるという見方をしています。

物事を考えている、思考しているエゴと同じ立ち位置で考える躁鬱大学と、エゴから一歩引いて(エゴとの同期を解いて)、俯瞰した立ち位置で物事を体感していこうとするフェリファブ哲学。二つの立ち位置は異なり、相反するところがあります。が、どちらも考え方が楽になる私のお気に入りです。

目次

フェリファブ哲学と躁鬱大学の、エゴとの付き合い方について

◯フェリファブのいう「私」

・私は森羅万象のひとつであり、すべての行動が使命に基づいている
・世界から求められた形で、存在している
・体感=私で、評価をしているのはエゴ
・エゴは物事を評価する主体であり、評価される対象でもある(=私とは言い切れない)
・エゴは小さく、私はどこまでも大きい
・すべてのことに意味はない
・快を感じる工夫を積み重ねることで、幸福感を高める
→リラックス、穏やか、温か
・急がば回れ

◯躁鬱大学のいう「私:エゴ」
・躁鬱人という少数民族
・目標、努力はできない体質
・充実と平穏は共存する
・あっちへふらふらこっちへふらふらがよろしい
・学生時代の日課のようにルーティンをすごす
・生活を多彩に、頭の中をにぎやかに
・一つのことにとどまらない
・我慢しない、きちんとしない、ちゃんとしない
・気分屋
・静かすぎる場所が苦手
・人との交流で自分が輝くため、人と接する仕事が良い
・本の虫とは程遠い
・反省はしない方がよい
・中身は空っぽ
・今何がしたい?
・暮らしの中での充足感を得るのは諦めろ
・好き嫌いで生きている
・褒められるためだけに動いている
・急がば自分で近道を見つけ出せ

<相反するところ>

このようにフェリファブ哲学はエゴの存在は認めつつ、必要のないところは受け流すという感じです。一方躁鬱大学はそのエゴが流動的であることから瞬間瞬間の体感で物を選びましょう、というエゴを切り離すことなく、エゴに沿う形で生活していこうとしています。

躁鬱大学がエゴに沿う形をとっているのは、躁状態が超楽しいからです。その時は万能で生命があることだけでも感動ができます。火力が強い幸福です。残念ながら私にはこの火力が中途半端で、そこまでの幸福感を感じることはめったにありません。むしろ不完全燃焼で怪しい煙を出したりするので、あまり向いている考え方ではないのかも。

フェリファブ哲学は、じんわりおだやかな幸せです。炭火のようなもので、私は落ち着いた状況であればこちらを体感することができます。

炭火を楽しみたいなら、火力が強いものは混ぜたくないのです。でも燃やして燃やし切る潔い感じもとても好きで、すっきりします。これも時と場合によってどちらかを選べば良いのでしょうね。自己探求をしがちなので、もっと自己を忘れたら良いと思います。

自分はなくて、その場その場の生き物なのだ。ただ知識は蓄積されるので、その都度体感を快適にすることはできる。そこが今回の落とし所かな(といいつつ、すぐ考えることは変わるし、すぐ忘れるのであまり意味がない)。

コメント

コメントする

目次