この本は嫌いだ。こんな風に嫌いと言い切る本は他にない。今私のカバンの中にこの本が入っているけれど、それすら煩わしくて今すぐにでもゴミ箱に捨ててしまおうかと思うくらい、嫌いだ。
苦しいドキュメンタリーや戦争映画を見たような、そんな後味が帯を引き、私はまだなんとも言えない気分で過ごしている。こんな日常が普通だったのかと驚愕している。読者にそこまで思わせられるところに作者の手腕を感じるが、そんなことよりも何よりもこの感覚はどうしたらよいものか。何度も言うが、私はこの作品や作者を嫌っているのではなく、作中の世界が大嫌いなのだ。
私はこんな感想を持ってしまったが、私の母には世代的にも刺さる内容だと思う。だからこの本の扱いに困って、母に譲るということも考えた。しかしそれを想像してみると、どうしてもけんかになる。きっと私は母に「私、この本もう二度と読みたくないからあげる」とか言ってしまって、そうしたらきっと母は「どうして?」と聞いてきて、仕方なしに理由を述べている内に、言葉にしていくことで私は余計にこの本の内容を深く認知してしまって、「私、結婚なんてしないから!」なんて揉めだすような発言をするに決まっている。だから母にあげることはしないことにした。
そもそも購入した時は小説だと思っていたのだ。ビニールカバーを開けてびっくり、河野文子さんの「ルキさん」みたいな、線の細い可憐な女性の絵が目に飛び込む。失敗したと思った。だって「しんきらり」という軽やかな題名の文庫本で、裏表紙に書かれたあらすじには「二人の子供を持つ女性が、めげずに家庭の中で幸せを模索する話」って書いてあって、そんなん小川糸さんみたいな内容かと思うじゃない。凛とした女性が主人公の小説かと思うじゃない。
正直絵柄も好んでみるタイプじゃなくて萎えていたのだけれど、一期一会だと思って読んでみた。最後までぶっ通しで読んだ。すごく嫌な内容なのに最後まで読んでしまったのに驚く。名作と帯で謳っているだけあるのかもしれない。
では、その思わず読まされた内容について、ネタバレしない程度に書いていく。
簡単に言えばモーレツ世代の旦那との生生しい生活。日々自分の心との折り合いをつける主人公の健気な姿が、見ていて辛くて、終始その家庭に、たとえその描写にこどもへの愛があふれていたとしても、こんな生活なんてまっぴらごめんだ!実家に帰らせていただきます!と怒りたくなるような話だった。
結婚、子育て、その中で主人公は自分の自由を見つけていく。「私、自由だったんだ・・・」なんて言っていたけれど、まったく、本当にこの生活はしたくない。本当にしたくない。そんな篭の中で自分の中の自由を見つけるだなんて、一種の悟りとしか思えない。というかそれを自由だと思いたくない。もっと世界を広く持っていたい。
なんともまあ私の恐れの化身のような本だった。読了後には思わず「今私がいるこの世界は、結婚してもしなくても寂しい世界なのか」と絶望しかけた。喜久屋書店は陳列が上手だ。普段選ぶものとは違う作品と出会えて、私は足繁く通っている。今回も、ある意味期待を裏切らなかった。
この強い反抗心。この生活だけは絶対にしたくないんだな、と気づいてけたのはある意味良かったのかもしれない。そう思いたい。・・・反面教師としてこの本を置いておくことも、いや、やっぱり嫌だな。自分の空間に置いておきたくない。
私はやっぱり経済的自立を果たしたい。誰かの生きるのサポート役じゃなくて、自分が生きるような生活を送りたい。
フェミニズムを声高に叫ぶのは、それを伝えないと大事にしてくれない社会なのだと定義してしまうようで、私は安易に同意しないできたのだが、もし彼女のような暮らしが当たり前で、母という存在はモノを考えず旦那と子供の面倒くさがることをやってあげるのが当たり前、というような状態だったとしたならば、フェミニズムを訴えるという気持ちに寄り添えるような気がした。過去の女性たちに感謝したい。
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