Florentine Ariosto Jones (1841-1916)
身長5フィート7インチ(171.5cm)、 体重215ポンド(97.5kg)、青い瞳、茶色の髪であると1907年に記録されています。フリーメイソンでもありました。
IWCの創業者であるフロレンタイン・アリオスト・ジョーンズに関する記録は僅かです。長らく肖像すら無いと考えられていました。最近になり、南北戦争に従軍した際のジョーンズと推定される、無名の青年のダゲレオタイプ写真と、懐中時計の文字盤に描かれた不鮮明な肖像が見つかっています。IWCのカタログで紹介されるのは後者を大きく引き伸ばしたものです。


フロレンタイン・アリオスト・ジョーンズは1841年2月15日にニューハンプシャー州ラムニーで生まれました。両親は靴職人のソロモン(1797-1864)とラヴィナ(旧姓クレイグ、1800-1864)です。 ジョーンズ家いわゆる「メイフラワー号の家系」であり、1620年にニューイングランドに定住した最初の清教徒「ピルグリム・ファーザーズ」のルイス・ジョーンズ(1600-?)まで遡ることができます。
クレイグ家はスコットランド系アイルランド人移民の子孫であり、1724年にニューハンプシャー州チェスターに定住したアレクサンダー・クレイグまで遡ることができます。
ジョーンズは州都コンコードで時計職人としてのキャリアを始めたと考えられますが、記録はありません。時計職人だった母方の大叔父2人(レヴィとアベル・ハッチンズ)の影響が指摘されています。
時期は不明ですが、ジョーンズはボストンへ移住します。E・ハワード時計会社で優秀な時計職人として経験を積み、1867年まで同社に在籍していたようです。
この間、ジョーンズは1861年7月24日から1864年8月1日まで、マサチューセッツ歩兵師団第13連隊A中隊で兵卒として軍務に就きました。入隊書類の職業欄には「時計職人」と記録されており、それは前述のダゲレオタイプ写真で誇らしげに胸に掲げた懐中時計からも明らかです。この間、激戦として知られるゲティスバーグの戦いにも参加しました。
1868年、ジョーンズは大きな志を抱いて渡欧、シャフハウゼンにIWCを設立しますが、事業に失敗し失意のうちにアメリカへ帰国します。
ごうたIWC設立の経緯とジョーンズの失敗については別記事をご覧ください。


1876年の帰国後、ジョーンズは機械工学の技術者としてアメリカン・ スチーム・アプライアンス社に勤務しました。1900年の国勢調査では職業欄に「蒸気管製造業者」と記載されています。蒸気装置の他、記録計用時計ムーブメントの設計なども行っていたようです。
ジョーンズは1916年10月18日にボストンのアダムズ通り43番地で死亡しました。1883年に結婚した妻スーザンとの間に子供はいませんでした。遺体は郊外ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地で火葬されました。墓地には両親と兄弟の墓がありますが、ジョーンズ夫妻の埋葬記録は無く、墓所は不明となっています。
IWC創業150周年記念に制作された動画です。
ジョーンズによるIWCの設立を描いた感動的な映像作品と言えましょう。

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