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IWCシャフハウゼンの歴史をたたえる(創業年は何年?)

ごうた

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IWC創業150周年記念に制作された動画です。

ジョーンズによるIWCの設立を描いた感動的な映像作品と言えましょう。

17世紀以降、スイスには宗教対立でフランスなどを追われたユグノー(カルヴァン派のプロテスタント)が集まっており、禁欲的な生活の中、寒村で細々と時計作りをしていましたが、職人的な手工業で非効率的でした。F.A.ジョーンズは、ボストンで近代的な時計生産の技術を学び、当時まだ人件費の安かったスイス職人の労働力を用いて、理想とする高精度の時計作りをすべく、ドイツ国境に近いシャフハウゼンにIWCを創業しました。1868年もしくは1869年のことです。

アメリカを離れたジョーンズと友人の技術者チャールズ・ルイス・キダーの2人がスイスのジュラ渓谷に到着した正確な日付は不明ですが、1867年後半か1868年初頭と考えられています。機械化により職を失うことを恐れたジュラ渓谷の時計職人達はジョーンズを異邦人として警戒し、会社設立に向けた成果は芳しくありませんでした。

ジョーンズは途方に暮れますが、ジュネーブで出会った新進気鋭の実業家ヨハン・ハインリヒ・モーザーが事態を大きく進展させました。シャフハウゼン市議会議員エアハルト・ モーザーを祖父に持ち、ライン川に最新式の水力発電所を建設したばかりのモーザーは、電力を活用したシャフハウゼンでの時計製造を提案します。こうして、1868年もしくは1869年にジュラ渓谷から離れたスイス北東部のドイツ語圏シャフハウゼンに「International Watch & Co., Schaffhausen, New York」が設立されました。

 最初の数年間は水力発電設備を備えた借地で過ごしました。その後、修道院の果樹園の跡地であり、当時は育苗地やアーチェリー場となっていた遊休地(バウムガルテンと呼ばれていました)へ移転、現社屋(バウムガルテンシュトラッセ15番地)を建造します。

IWCの設立年には1868年説と1869年説があり、現在まで議論が続いています。シャフハウゼンの商業登記簿は1883年から始まるため、会社設立の年月を証明する公的な記録が存在しません。ジョーンズの居住許可は1869年1月18日付、住民登録は1869年6月1日付、納税記録に社名が現れるのは1869年です。

1869年の記載があるジョーンズの住民登録
“IWC International Watch Co. Schaffhausen”, Hans Tölke and Jürgen King, 1987. 26ページより

一方、1874年の広告は1868年説の根拠です。曰く「ボストンとニューヨークの時計製造業者E.ハワード社の元取締役F.A.ジョーンズ氏は、 アメリカとスイスの時計製造技術に精通した後、 6年前にシャフハウゼンに時計工場を設立しました…」

現存する最古のIWCウォッチの製造番号は「1410」です。この時計のムーブメントに1868年9月15日の刻印があります。IWC研究家グレッグ・スティアーによるアメリカ特許庁への照会も含む念入りな研究によれば、この刻印には「Elson’s Patent」の併記があり、製造年ではなく、アメリカで取得され、後にジョーンズに譲渡されたエルソンの1868年9月15日の特許を表すものと考えられます。

特許承認の確認をしてから、シャフハウゼンへ移動して時計を製造したのでしょうか?文書による通知を待っていたのでしょうか? 当時は相当の時間がかかるでしょう。それとも、海底通信ケーブルによる電信で速報されたのでしょうか? この最古のIWCウォッチが1868年製であると考えるのは少々困難とも思われます。

現在のところ、生産活動は1868年末か1869年まで開始されなかったと考えられます。会社設立はそれ以前でしょうが、1868年と1869年のどちらであるか曖昧な状況です。

1873年5月発行の雑誌『ザ・ウォッチメーカー・ アンド・ジュエラー』に掲載された広告には堂々とした工場が描かれ「インターナショナル・ウォッチ・ カンパニー・アメリカ」の看板があります(新社屋完成前のため、一種の誇大広告でした)。

曰く「インターナショナル・ウォッチ・カンパニー は、アメリカの優れた機械システムとスイスの熟練した手作業を組み合わせることを目的として、 スイスのシャフハウゼンに時計工場を設立しました。そして今、絶対的な機械的完成度と芸術的な仕上げを備えた、信頼性の高い時計を業界に提供する準備が整っています。」

しかし、1864年に導入された25%の戦争関税が継続されたこと、輸入品に対抗しアメリカ国内でも高品質の時計製造の機運が高まったことから、ジョーンズの計画に狂いが生じます。さらに悪いことに、多くの輸出業者が粗製濫造の時計をアメリカへ売り込んだため、ヨーロッパ製時計のアメリカでの評価は著しく低下しました。アメリカ市場のみを念頭に置いたIWCにとって致命的な状況です。

1872年にアメリカで販売されたスイス製時計は366,000本でしたが、わずか4年後には65,000本まで落ち込みました。

IWCの最初の大きな危機が迫っていました。

シャフハウゼンのバウムガルテンシュトラッセ15番地に近代的な社屋を建設したばかりでしたが、財務状況は極めて不安定でした。困り果てたジョーンズは、出資者に内緒でラ・ ショー=ド=フォンの会社に年間9,000本の時計を供給する契約を結びました。これらの時計はIWC銘ではなく、グリーンリーフ(ジョーンズの兄の名前)やスティヴェサント(マンハッタン島を開発したオランダ人)といった名前で販売されたようです。この件が露呈したことでジョーンズと出資者の関係は修復不可能となり、彼はシャフハウゼンを去りました。

事態は悪化の一途を辿り、1874年にIWCは倒産します。1875 年、シャフハウゼン商業銀行は倒産したIWCを14万3000フランという破格値で買収しました。1876年に新会社「インターナショナル・ウォッチ・ カンパニー」が設立されアメリカ人フレデリック・フランク・シーランドが会長に就任します。

ジョーンズキャリバー(90フラン)よりも低廉なシーランドキャリバー(28フラン)での再起を図りますが、経営の改善は難航します。シーランドは不正経理で在庫評価額を過大に計上し220,724フランの損失を隠しました。1879年8月の棚卸を控え、全てが露呈する事を恐れたシーランドはアメリカへ突如帰国、以降音信不通となりました。裁判所は本人不在のままシーランドに対し3週間の禁固刑を宣告し、自宅や家具の他、馬車や馬も差し押さえられ競売にかけられました。

2度目の倒産に直面したIWCを買収したのは、出資者でもあったシャフハウゼンの機械製造業者ヨハネス・ラウシェンバッハ・フォーゲルでした。シーランド失踪の一報を湯治先で聞いたラウシェンバッハは急遽シャフハウゼンへ戻り、建て直しに奔走しました。

これ以降、IWCはスイス資本の家族経営の企業となります。

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