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IWC ポルトギーゼの歴史をたたえる2 不遇なRef.325ポルトガル・ウォッチ

前回からの続きです

最初のポルトギーゼは1939年2月にオデッサのL.シュワルツ社へ、さらに数ヶ月後にはリヴィウの小売店へ出荷されました。

ポルトガルへの出荷は3年も遅れ、1942年2月2日にパチェコ社、6月17日にリスボンのRodrigues & Gonçalvesへ出荷されました。遅れた理由は不明ですが、政情によりスイスとの連絡や通関手続きが遅延したことが原因と考えられています。

その後もオーダー元であるポルトガルへの出荷は低調であり、製造されたポルトギーゼの大部分はブラティスラバの小売店クーチャー&ヴィットマンとヴァインスタベルへ出荷されました。

ポルトギーゼが実際に航海用デッキウォッチとして用いられたのかは全く知ることができません。そもそも、ポルトガル商人との詳細なやりとりが不明のため、どのような目的で注文されたかも定かでは無いのです。

なお、ウクライナやスロバキアでポルトギーゼが航海用デッキウォッチとして活躍する場面は想像し難く、おそらくは軍用として砲科将校の着弾観測やパイロットウォッチとして用いられたのではないでしょうか。ダーティダースのように、ボンクリップ風のバンブーブレスを合わせた軍用然としたポルトギーゼの写真も残されています。

1957年、ポルトガルからの再度のオーダーを見越し、IWCは100個のケースを調達しましたが、1959年に16本がポルトガルへ出荷されるに留まり、これが同国向けの最後の出荷となりました。

1970年代に入り、1957年に調達するも出荷が無く余剰となっていたケースと懐中時計用のムーブメントを一掃するため、大型の時計が受け入れられやすいドイツ市場向けにポルトギーゼの出荷が計画されました。これはジャーマンエディションと呼ばれます。

ルイ15世風の針を取り付けたジャーマンエディションは個体ごとにバラバラでヘンテコな組み合わせにも見えます。フランクフルトの小売店に57本が出荷されたのみで、カタログに載ることもありませんでした。

ジャーマンエディションは、伝説的な初代ポルトギーゼと、1990年代に復活する新生ポルトギーゼを繋ぐモデルにあたることから、ピルトダウン人ではありませんが、「ミッシング・リンク」とも呼ばれます。

ジャーマンエディションは、2008年に復活したRef.5442ポルトギーゼハンドワインドF.A.ジョーンズで意匠が蘇りました。

ここまでをまとめると以下の通りです。

ポルトギーゼ第1世代

   Cal.74

   1939〜1951年に304本が生産

ポルトギーゼ第2世代

   Cal.98

   1944〜1970年に329本が生産

ポルトギーゼ第3世代

   「ジャーマンエディション」

   Cal.982

   1977〜1981年に57本が生産

上記1939〜1981年までのRef.325の製造は690本
ポルトガルへ1942〜1959年にかけて141本が出荷

 141本の内訳:Cal.74を載せた第1世代が28本
Cal.98を載せた第2世代が113本

ステイブライト製の非防水ケースはWyss & Cie社製、直径41.5mm、厚さ9.5mmでベゼルとラグはポリッシュ仕上げ

なお、ポルトガル向けの141本には、税関でアルマジロのホールマーク(貴金属では無い時計ケースを意味します)がラグに刻印されたため、識別が容易です。


なお、ここまでの内容はIWC博物館館長デイヴィッド・セイファー博士による研究成果が出典です。私も何度か会いましたが、大柄な身体に、探究心いっぱいの輝いた目が印象的でした(時計はアクアタイマーのスプリットミニッツクロノでした)。

ポルトガル・ウォッチの歴史は一旦ここで幕を閉じます。

次回へ続きます

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